「正倉院展の香」見聞録

 

ここでは、平成9年10月25日に国立博物館で私が見聞きした「正倉院の香」の話をメモのままご紹介します。

見たことは、正倉院の香木について、これまで写真資料では解からなかった細かい発見を目分量で描写しています。

聞いたことは、この日の午後に行われた、大阪大学薬学部助教授 米田該典先生の公開講座「正倉院の香」の内容を聞きかじりで書いています。

 

※ 米田先生は、平成6年から正倉院の香の調査に参加しており、最も蘭奢侍に近い研究者の一人です。

黄熟香(蘭奢侍)

蘭奢侍の写真

見たこと

概観は、長さが156cm、太さが一番太い木元のところで約40cm、重さが11.6kgの中空の巨木。

色は大別して3色。表面の樹脂の結んだ部分はチョコレート色で艶がある。木部の断面は、明るい茶褐色、内部中空の表面は、木部よりも若干赤みがあるが艶は見られない。

中空の部分は、木元から90cm程まで円錐状に延びる、木元の内径は、約30cm。

木目は普通ぐらい、木筋はめだたない。

先端は二股に分かれ、太い方の根元から5×10cm程の切り取り跡を発見。

蘭奢侍の切り口拡大図(先)

 

蘭奢侍の切り口拡大図(元)

5の切り跡

 

6の切り跡

中央部下側に直径5cm程の枝が出ていた形跡発見。枝元から内側に向かって「く」に切り込んで、枝を切断した跡を発見。

背面には、3〜5mm程度の小穴が10個ほどあいている。

足利義政が切った部分は、鑿を2方向から使って割ったような断面の乱れがある。

織田信長が切った部分は、香木用の鋸で切ったとは思えない1.5mm幅の切込み跡が残っている。

聞いたこと

黄熟香の中空は、鑿で樹脂の結んでいない部分を削り取ったもの、朽ちて穴が空いた訳ではない。

沈香の部分だけを残して商品価値を高めるやり方は、原産地で施したか日本で施したかは不明だが、900年以降から行われているので、黄熟香の伝来もこの頃と考えてよい。明らかに全浅香より新しい年代のものだ。

鋸の幅と断面の関係から、信長が黄熟香を切った時の経緯に仮説が成り立つ。

即ち、「信長に城に呼ばれて、東大寺の僧が黄熟香を持って参上する。一目見て信長は、欲しくなり「これを切れ。」と命じる。僧は、切り取ることなど予想もしていなかったので、道具もない。しかし、信長の性格上一刻の猶予もない。しかたなく城大工の鋸で硬い香木を切り込むが鑿がたたない。そこで力任せに内側に手をかけて剥ぎ取った。」というもの。

黄熟香の鋸屑を検体にして、ガスクロマトグラフィで香りの成分を分析したが、他の香木とは、違った所見が出た。

しかし、近年手に入れた沈香の巨木から同様の所見が出て現在の沈香との同一性を確認できた。おそらくベトナムからタイにかけての地帯が原産地だろう。

黄熟香を聞いたことがあるが、低温の頃からよく香る「さわやかで軽い香り」がした。

高温になっても同様の香りがすることから、いわゆる「一味立ち」と言える。よく蘭奢侍を「十返りの香」というが、低温で聞けば相当香りはもつだろう。

黄熟香は、名香?

まずあんなに古く大きな沈香木は他にないので、名木であるということは断言できる。名香という定義は難しいが、上記の所見から個人的見解では名香と言える。

黄熟香は伽羅?

沈香or伽羅と大別すると、成分化学的分析では、伽羅といえる。しかし、伽羅という言葉は、室町時代以降のものであるので、当時は区別がなかった。

蘭奢侍と言われる香木と黄熟香は、同じ物?

比較するべき他の「蘭奢侍」の検体がないのでわからない。あくまで雅号として、良質で貴重な香木に同様の香名を付けることはありうる。

推古3年(595)淡路島にたどり着いた「沈水」は黄熟香?

伝来の年代からして違うと思う。法隆寺にも沈香の巨木が保存されている。聖徳太子が当時この香木を沈水であると鑑定したという話もあり、法隆寺の香木の方が可能性は高いのではないか。

全浅香(紅塵)

全浅香の写真

この画像は、CGによる着色を施しました。

見たこと

概観は、長さ約100cm、直径約25cmの丸太。

色は大別して2色。表面の樹脂の結んだ部分は茶褐色で艶がある。木部は、うす茶色で艶はない。

上部から1/3程度は、約半分に割って切り取られている。厚い鋸の切り跡が深く残っている。

全体は、少し屈曲しており、中央近くに根元を残して枝を切り取った跡がある。

前面の表皮の一部は、剥ぎ取られたようになっており、木部が露出している。

背面は、白太(樹脂の結んでいない部分)と見られ、1mm程度の小穴が無数にあいている。(虫が原因か?)

表面には、856年の3月24日に正倉院蔵物検査で書かれた墨書がある。

聞いたこと

全浅香は、国家珍宝帳に記載された香木だが、当初から列挙されたのではなく、後(752年)に「浅香一村」を書き足した形跡があるので、伝来年がはっきりしている。

東大寺(大仏)に香薬として献上されているが、巨木なので珍奇なものとして保存されたのではと思われる。

白太の部分を残したまま保存しているということは、黄熟香よりも古い年代の香木であることは間違いない。

黄熟香と全浅香は、化学的には極めて似ているが、樹脂や精油成分の沈積の程度が大きく異なるので、全く別種の香のように見えてしまう。

 

沈 香

正倉院には、長さ5センチ程度の沈香の断片から、今にも焚いて聞けそうな小片まで、大量の沈香が保存されている。これらの香木は、宝物に香りをつけたり、防虫などの効果を期待して入れたものかもしれない。

東大寺は、天皇の勅命により民衆に施薬をする寺であったことから、数々の薬の原料が出入りしている。沈香は、「香薬」の材料として使われ、精神安定、健胃、強壮、利尿、解毒の効能があるとされていた。

夜泣き、疳の虫、食中毒等に効くとされている丸薬「奇応丸」は、東大寺発祥の薬で、主成分は沈香の粉である。

沈香箱のように、工芸品の材料にも使われている。普通は薄くした沈香木を木箱に張り付け、象眼などを施すが、沈香の粉を練って丁子と混ぜ合わせ、木筒に貼り付けた教筒もある。

ガスクロマトグラフィで分析したところ、9種類の特有成分を検出した。新種の化合物もあったので、jinkohol(ジンコオール)やagarofuran(アガロフラン)など香に因んだ名前をつけた。ベトナム原産のものには、dihydorofuranon(デヒドロフラノン)という特有物質が見つかった。

この成分分析によって、正倉院の香と現在の沈香を比べた結果、沈香は古くなっても香りが変質しないことが実証された。

沈香木は、葉の長さが12cm程のベンジャミンに似た木。苗を日本に持って来て植えてみたら庭で育っている。しかし、枝払いなどして生結を試みたが10年しても樹脂は結ばない。

 

香 料

正倉院には、沈香のほかにも麝香、白檀、丁香、木香、桂心、薫陸、胡同律、琥珀、香附子、甘松香などが保存されている。これらは、すべて薬の原料として使われていた。

麝香は、表皮の部分だけが残っているので、麝香皮と呼んでいる。中身は、蒸発したのか、消費されたのかわからない。

現在琥珀は、宝石のように思われているが、当時は香料や薬として扱われており、基本的には沈香と同じだった。

木香や丁香についても成分を分析し、現代のものと比べてみたが、香りの成分が無くなっおり、香料は経年劣化することがわかった。

正倉院では、直径1cm程の丸薬の形をした練香の破片も見つかった。つなぎに使う蜜も買い入れた記録があることから、練香は奈良時代にもあったと思われる。

香料について 「広辞苑抜粋」

じゃこう【麝香】

香料の一種。ジャコウジカの麝香嚢から製した黒褐色の粉末で、芳香が甚だ強く、薫物(に用いられ、薬料としても使われる。主に中央アジア・雲南地方などに産する。

びゃくだん【白檀】

ビャクダン科の半寄生的常緑高木。インドネシア原産で近縁種と共に香料植物として栽培。高さ六メートル余。葉は対生し卵形、黄緑色。雌雄異株。花は初め淡黄色、のち赤色。芯材は帯黄白色で香気が強い。古くからわが国へも渡来、薫物とし、また、仏像・器具などに作る。皮も香料・薬料に供する。

ちょうこう【丁香】

フトモモ科の熱帯常緑高木。原産はモルッカ諸島。一八世紀以後、アフリカ・西インドなどに移植。高さ数mに達し、枝は三叉状、葉は対生で革質。花は白・淡紅色で筒状、集散花序をなし、香が高い。花後、長楕円状の液果を結ぶ。蕾を乾燥したものを丁香と呼び古来有名な生薬・香辛料。果実からも油をとる。黄色の染料としても使われた。

もっこう【木香】

キク科の多年草。インド北部原産の薬用植物。高さ約二メートル。葉は膜質で広楕円形。暗紫色のアザミに似た頭花を開く。根は黄褐色、乾したものが生薬の木香で、芳香と著しい苦味がある。健胃剤。昔は衣服の賦香・防香に用いた。今は中国で栽培。

けいしん【桂心・桂皮】

肉桂あるいは桂の樹皮。辛味と芳香を有し、健胃剤・矯味矯臭剤・香辛料に供する。シナモン。

くんろく【薫陸】

凝固して石のようになった苦みのある物質。インド・ペルシアなどに産する一種の樹脂。薬剤・香料とする。黄褐色または暗褐色の樹脂。琥珀に似て成分を異にする香料。

こどうりつ【胡同律・胡椒】

コショウ科の蔓性常緑木本。普通は雌雄同株。インド南部の原産とされる香辛料作物で、熱帯各地で栽培。果実は豌豆大の液果で、熟すれば赤色。実を加工した香辛料。ペッパー。

こはく【琥珀】

地質時代の樹脂などが地中に埋没して生じた一種の化石。塊状・礫状などで産し、おおむね黄色を帯び、脂肪光沢いちじるしく、透明ないし半透明。パイプ・装身具・香料・絶縁材料などに用いる。

こうぶし【香附子】

ハマスゲの塊根を乾燥した生薬。漢方で気鬱症・胃痛・腹痛・月経痛などに用いる。

かんしょうこう【甘松香】

中国、東インド、ヒマラヤ高地などに産する甘松香草の根や茎を乾燥させた香料。香分は根に強く、茎は薬用や線香に用いる。

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